「口は出さない」流儀で若手を見守った山﨑誠先生の教えを継ぐ脳神経外科医 井上靖章

「好きなようにやれ」— 私を信じきってくれた、山﨑誠先生の流儀

山﨑誠先生のキャリア応援の流儀は、たった一言で言えます。「口は出さない」。あの厳しい人が、私のキャリアにおける挑戦には、ふしぎなほど一切口を出しませんでした。脳神経外科医 井上靖章が、自分を信じて任せきってくれた恩師の支え方と、いま受け継ごうとしているものを綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第10回。

「好きなようにやれ」

あの言葉に込められていたものを、自分の言葉にできるまで、13年かかりました。今日は、その答え合わせです。

第8回で、山﨑先生のことを「カルテが飛んでくるほど厳しい人だった」と書きました。診療のことになると、それは、おそろしく厳しい人でした。今日はその続き——同じ人の、もう一つの顔の話です。

ところが、その同じ人が、私自身の進む道に関しては、ふしぎなほど何も言わなかった。留学の相談でも、進路の岐路でも、いつも同じ。口ぐせのように、いつも、こう言うだけでした。

好きなようにやれ。

キャリアの節目のたび、私は先生のところへ相談に行きました。診療には一ミリの妥協も許さないのに、私の人生の選択には、一切、容喙しない。最初は、その落差が、不思議でなりませんでした。なぜこの人は、これほどまでに私を自由にしてくれるのだろう、と。

キャリアの相談に行くたび、同じことが起きました。私が長々と事情を説明し、迷いを打ち明ける。先生は最後まで聞いて、それから、あの一言です。「好きなようにやれ」。拍子抜けして部屋を出るのですが、廊下を歩くうちに、不思議と腹が決まっている。あの人の「好きなようにやれ」は、丸投げではなく、「おまえの判断を、俺は信用している」の言い換えだったのだと、いまなら分かります。

「おまえの野望が、俺の宝物」

その理由は、ある日の先生の一言で、すとんと腑に落ちました。何気ない会話の中で、ぽろりとこぼれた言葉でした。

おまえの野望が、俺の宝物なんだ。

足を悪くして、第一線で手術をすることが叶わなくなっていた先生。その人は、若い私の挑戦そのものを、自分の喜びにしていた。自分の手ではもう届かない景色を、私に重ねていたのかもしれません。だとすれば、私の挑戦は、私一人のものではなかった。あの人の見たかった景色を、代わりに見に行く旅でもあったのです。

宝物なら、人は、壊さないように、そっと扱う。あれこれ口を出して、私のやり方をねじ曲げるようなことは、決してしませんでした。先生の「放任」は、無関心の逆でした。深い期待と信頼の、別の形です。それがわかったとき、私は、自由に挑ませてもらえることの重さを、初めて知りました。

考えてみれば、若者の挑戦に口を出したくなるのは、たいてい、心配だからです。心配は愛情の形ですが、口から出ると、しばしばブレーキの形になる。あの人は、心配を、口には出さず、目と手で表現した。黙って見て、必要なときだけ、そっと環境を整える。愛情の出口を選べる人だったのだと思います。

反対の声の中で、盾になってくれた

ただ、「口は出さない」は、「放っておく」とは違います。ここを、はき違えてはいけない。この二つの違いを、私は先生の行動から、はっきり教わりました。

米国の医師免許試験・USMLEのために、私がまとまった休みを必要としたときのことです。研修医が長期の休みを願い出るなど、当時の常識では、なかなか許されないことでした。それでも先生は、事情を細かく問いただすこともなく、「行ってこい」と背中を押してくれました。けれど、私が抜けるあいだ、その仕事を引き受けるのは、現場の同僚たちです。当然、不満の声も上がりました。無理もありません。

そんなとき、先生は、周囲に向けてこう言ってくれたのだそうです。

受験に行けるように、周囲の負担も調整してやってくれ。

病院のいちばん上に立つ人が、わざわざ矢面に立って、一介の若造の夢をかばう。任せて、自由にさせて、けれど、いざとなれば自分が盾になる。それが、「口は出さない」という流儀の、もう一つの顔でした。私が気兼ねなく挑戦に専念できるよう、見えないところで、まわりを整えてくれていた。

我がことのように、喜ぶ

その試験に合格したと報告したとき、先生は、まるで自分のことのように喜んで、それは盛大に祝ってくれました。大々的なお祝いは、正直、少し気恥ずかしかった。けれど、その喜びようが、何より嬉しかったのを覚えています。人の成功を、あそこまで全力で喜べる人を、私は他に知りません。嫉妬や査定の混ざらない、純度百パーセントの祝福。受け取った側は、その純度を、一生忘れないのです。

合格の実利より、あの拍手のほうが、いまも記憶に残っています。自分の小さな一歩を、自分の達成のように喜んでくれる人が、そこにいた。思い返せば、いつもそうやって背中を押され続けて、私はメイヨークリニックやハーバードという、海の向こうの世界へ出ていくことができた。

ここまで書いて、気づくことがあります。「口は出さない」という流儀は、実は三つの動作でできていました。見ている。任せる。守る。ただし、順番があります。見てもいないのに任せるのは、放置です。任せておいて守らないのは、切り捨てです。あの人は、若造の仕事ぶりも、癖も、危なっかしさも、全部見た上で、口を出さないと決めていた。「口は出さんが、応援は惜しまん」——第1回に書いたあの言葉は、この三つの動作の、見事な要約だったのです。

「口を出さない」という、いちばん難しいこと

医師になって13年半。あの流儀を受け取った側だった私は、いま、自分が人に教える側になりました。そして、痛いほどわかることがあります。

「口を出さない」ことは、口を出すことより、ずっと難しい。

口を出すのは、一瞬で済みます。気持ちもすっきりします。しかも「ちゃんと指導した」という体裁まで立つ。一方、口を出さずに見守るのは、時間がかかり、心配が続き、外からは何もしていないように見える。安く見えて高くつくのが口出しで、高く見えて安いのが見守り——教える立場になって、この損得がやっと分かりました。

とりわけ、難しいのは手術です。若手に任せたとき、手を出したくなる瞬間が、何度も訪れます。自分が器械を持てば、早いし、安全に見える。けれど、それを続ければ、その医師の手は、いつまでも育たない。だから、手を出したい気持ちを、のみこむ。危うくなれば一秒で替われるように身構えながら、それでも、待つ。任せる。信じる。

見守る側の、頭の中

待っている間の指導医の頭の中を、少しだけお見せします。術野を見ながら、三手先までの安全確認を続けています。いま替わるべきか。まだ待てるか。この操作の先に、危険はないか。任せている時間は、休んでいる時間ではなく、二人分の集中をしている時間です。だから、若手の手術に付き合った日は、自分で執刀した日より、疲れます。あの疲れの分だけ、人が育つのだと思えば、安いものですが。

若手から相談を受けるたびに、私はあの言葉を思い出します。「好きなようにやれ」。言いたい。言ってみたい。でも、あの一言を言う資格は、見て、任せて、守る覚悟とセットでしか手に入らない。山﨑先生が私にしてくれたのは、つまり、これだったのか——と。任せて、信じて、喜んで、いざとなれば守る。あの流儀の、外科医としての続きを、私はいま生きているのだと思います。

もっとも、実践してみると、あの流儀の難しさは、想像以上でした。口を出さないためには、出さなくても大丈夫なところまで、相手を見きわめる目が要ります。信じて任せるためには、失敗の責任を引き受ける覚悟が要ります。「好きなようにやれ」の一言は、言う側の背中に、これだけの荷物を要求するのです。あの人は、それを、何人もの若者に、何年も続けました。偉大さの正体は、いつも、続けた年数の中にあります。

おわりに — 「好きなようにやれ」と、言える人に

山﨑先生は、2018年に旅立たれました。けれど、先生から受け取った「口は出さない」という流儀は、私の中で、少しも色あせていません。

信じて、任せて、見守る。そして、いざとなれば盾になる。それが、人をいちばん伸ばすやり方だと、私は自分の身をもって知っています。良い術者が一人でも多く育つことは、巡り巡って、いつか、どこかの患者さんを救うことにつながる。だから私は、この流儀を、次の世代へ渡していきたい。

誰かの挑戦に、口を出したくなるたび。私は、はやる気持ちを抑えて、あの声を思い出します。そして願うのです。あの「好きなようにやれ」を、今度は私が、誰かに、まっすぐ言える人間でありたい、と。

山﨑誠先生の流儀「口は出さない」を受け継ぐ脳神経外科医 井上靖章

井上靖章(いのうえ やすあき)

脳神経外科医・医学博士。日本脳神経外科学会専門医・指導医、日本脳神経血管内治療学会専門医、日本脳卒中学会専門医。京都大学医学部卒業。米国メイヨークリニックでの研究研修、ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院フェローを経て、湖東記念病院 脳神経外科部長。開頭手術と脳血管内治療の両方を自分の手で行う「二刀流」の脳神経外科医。治療方針は、開頭手術・脳血管内治療・経過観察のすべてを並べて示すことを原則としている。

プロフィール・実績の詳細 / 連載「手記」一覧 / X(@yasuaki_neuro)

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