第二の父・山﨑誠先生と歩んだ日々を振り返る脳神経外科医 井上靖章

第二の父・山﨑誠先生との出会い — 名戸ヶ谷病院で私を見守ってくれた人

名戸ヶ谷病院で出会った「第二の父」、山﨑誠先生。研修医だった私の渡米の夢を、脳外科医仲間よりも、家族よりも、親友よりも喜んでくれた人です。脳神経外科医 井上靖章が、職員みなに畏れられた創業者の素顔と、いまも自分の中に生きるその教えを綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第8回。

カルテが、飛んできた

カルテが、飛んできた。比喩ではありません。物理の話です。

続いて、部屋を震わせる怒鳴り声。診療への姿勢を、こっぴどく叱られている。声の主は、名戸ヶ谷病院の創業者であり、初代理事長の山﨑誠先生。医療に対して、おそろしくストイックで、自分にも他人にも厳しい人でした。病院じゅうの職員から、畏れられていた。

私自身、何度もカルテを投げつけられ、怒鳴られたものです。忙しさを言い訳に、説明を省いたとき。検査結果の確認が、後手に回ったとき。叱られるときは、たいてい、こちらに非がある。患者さんへの向き合い方が雑になっていると、こう言われる。

そんなやり方を、自分の親にも、できるのか。それができないなら、もうクビだ。出て行け。

口先だけではありません。本当にクビにする人でした。それでいて、先生を悪く言う人に、私は会ったことがありません。叱られた人間ほど、先生を慕っていました。理由は、いま思えば単純です。あの人の叱責には、保身も気分も混ざっていなかった。怒られている最中でさえ、「これは患者さんのための雷だ」と、雷に打たれている側にも分かる。そして叱責の奥には、いつも、たしかな愛情がありました。第1回でも少しだけ触れた、私の「第二の父」。今日は、あの人のことを、まるごと書きます。

「ここをベースキャンプにして、世界に羽ばたけ」

その山﨑先生との出会いは、大学6年生のときにさかのぼります。もしあの出会いがなかったらと想像すると、いまでも少し、背筋が冷えます。それほど、私の人生の分水嶺になった人です。

当時の私は、アメリカで医師として働くという野望の、入り口を探していました。メイヨークリニックに留学した折に出会い、心から尊敬していた森崎裕先生が、「君にぴったりの病院がある。一度、理事長に会ったほうがいい」と、名戸ヶ谷病院をすすめてくださった。それが、きっかけです。

当時の私には、名の知れた東京の病院からも、熱心なお誘いがありました。それでも私の目標は、有名な病院に入ることより、アメリカで医師になることです。研修医にはお金も自由もない。上司が首を縦に振らなければ、留学準備のために病院を離れることもできません。迷っていた私に、山﨑先生は、こう言ってくれました。

ここをベースキャンプにして、世界に羽ばたけ。サポートは惜しまない。

初対面の日の、応接室

初めてお会いした日のことは、よく覚えています。私は緊張で固くなりながら、アメリカで働きたいという、実績の裏付けもない夢を話しました。笑われるか、諭されるか。ところが先生は、遮らずに最後まで聞いて、それから、値踏みするというより、面白がる目をした。夢を語る若造を、まず面白がってくれる大人。あの目に、私は出会ってしまったのです。

この一言で、私は心を決めました。周りには反対されました。けれど、誰かの「すごい」に乗っかって渡米の夢が消えるくらいなら、自分で選んだ道で勝負したい。その背中を押してくれたのが、山﨑先生でした。

縁もゆかりもない関西の若造を、なぜ

山﨑先生にとって私は、縁もゆかりもない、関西から来た一介の研修医です。血縁もなければ、同門でもない。病院に長く尽くした古参でもない。それなのに、どうしてここまで応援してくれるのか。当時の私は、ありがたさの一方で、ずっと少し、不思議でした。

先生は当時、足が不自由で、杖をついたり、車椅子を使ったりしていました。もう、第一線で手術をすることはできない。医師として、それがどれほど無念なことか。いまの私には、想像がつきます。それでも先生は、その無念を、恨み言にせず、別のものに変えていました。病院には顔を出し、若い医師たちを見ていた。あるとき、ご自身の足のことに触れながら、こんなことを話してくれたのを覚えています。自分が若い頃にやりたくてもできなかったことを、いまの若い者が挑もうとしている。それを後押しするのが、足の悪い自分にできる、いちばんの仕事なんだ、と。

言葉より、行動で

言葉だけではありませんでした。初期研修で、私が上の医師から理不尽な目に遭っていたときも。米国の医師免許試験・USMLEに苦しんでいたときも。山﨑先生は、いつも私の側に立ってくれた。勉強のための時間や研修の機会も、「若い者の挑戦のためなら」と、惜しまず整えてくれました。組織のトップが味方でいてくれることが、一人の研修医にとってどれほどの追い風か。それは、吹かれた者にしか分からない風だと思います。

私の三十数年の人生で、渡米への挑戦を、自分のことのように、一番に楽しみにしてくれたのは、山﨑先生でした。縁もゆかりもない土地で、本当の父のように、見守り、励まし、支えてくれた。だから私は、この人を「第二の父」と呼ぶのです。

「帰ってこい」とは、言わなかった

アメリカで働くことが正式に決まったとき、山﨑先生は、自分のことのように喜んでくれました。そして、こう言いました。

必要なサポートはする。でも、うちに帰ってこいとは言わない。おまえが夢をかなえて、向こうで活躍する様子を聞かせてくれ。それが、俺の一番の喜びだ。

自分の病院に縛りつけることも、恩を着せることもしない。ただ、若者が夢をかなえる姿を、喜ぶ。そんな大人が、本当にいるのかと思いました。育ててやったのだから返せ、ではない。行ってこい、羽ばたく姿を見せてくれ、と。これが、山﨑先生の愛情の形でした。恩を、鎖ではなく、翼として渡す人だったのです。

渡米を終えた私が、ふたたび名戸ヶ谷病院に戻ったのは、この人に恩返しがしたい、その一心からでした。世界のどの病院より、あの人のいる病院で腕を振るう自分を、この目の前で見せたかった。

けれど、山﨑先生は、2018年に旅立たれました。私が海を渡り、世界の現場で手術をする姿を、ついに、直接お見せすることはできませんでした。「活躍する様子を聞かせてくれ」という、あの約束の続きを、生きた声でお届けすることは、もう叶いません。それだけが、今も、心残りです。

いま、応援する側になって

医師になって13年半。応援される側だった私も、いつしか、誰かの挑戦を応援する側の年齢になりました。立場が変わると、景色も変わります。当時は見えていなかったことが、はっきりと見えてくる。

縁もない若者の野望を、自分のことのように喜ぶ。口出しをぐっとこらえて、ただ背中を押す。失敗するかもしれない相手を、それでも信じて任せる。それは、簡単なことではありません。応援には、時間がかかります。信じることには、リスクがあります。若者は、期待どおりには育たないし、育ったら育ったで、巣立っていく。それを全部引き受けた上で、なお喜ぶ側に立ち続ける。自分も誰かに何かを託したいと思う齢になってみて、山﨑先生がしてくれていたことの大きさが、ようやく身にしみるのです。

だから今度は、私の周りで挑戦しようとする人の「やってみたい」を、できる限り、本気で応援したい。先生が私にそうしてくれたように。それが、いちばんの恩返しになると思っています。牛久のお墓の前で、私はそのことを、何度も報告し直しています。

そして、あの叱責。「自分の親にも、できるのか」。あの言葉の意味も、年を重ねるほど、深くわかるようになりました。目の前の患者さんを、自分の親や家族を診るのと同じ気持ちで診ているか。手術場に立つたび、私の中で、今も山﨑先生のあの声が響いています。

第二の父から受け取ったもの

山﨑先生から教わったいちばん大きなものは、手術の技術でも、キャリアの段取りでもありませんでした。もっと手前の、人としての土台のほうです。

縁もない誰かのために、自分の持っているものを、惜しまず差し出せるか。見返りを求めずに、人の挑戦を喜べるか。先生は、それを言葉ではなく、生き方まるごとの背中で見せてくれた人でした。

だから、あなたを診るとき、私はいつも、あの厳しい声を思い出します。あなたを、自分の家族を診るのと同じ気持ちで診る。決して、雑にはしない。忙しい日ほど、疲れた夜ほど、あの声は大きくなります。それが、第二の父から受け取った、私の医療の芯です。

第二の父・山﨑誠先生について綴る脳神経外科医 井上靖章

井上靖章(いのうえ やすあき)

脳神経外科医・医学博士。日本脳神経外科学会専門医・指導医、日本脳神経血管内治療学会専門医、日本脳卒中学会専門医。京都大学医学部卒業。米国メイヨークリニックでの研究研修、ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院フェローを経て、湖東記念病院 脳神経外科部長。開頭手術と脳血管内治療の両方を自分の手で行う「二刀流」の脳神経外科医。治療方針は、開頭手術・脳血管内治療・経過観察のすべてを並べて示すことを原則としている。

プロフィール・実績の詳細 / 連載「手記」一覧 / X(@yasuaki_neuro)

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