13年勤めた病院を離れ、私は滋賀県の湖東記念病院(昴会)で、もう一度ゼロから歩き出しました。これは「去った話」ではなく、「選んだ話」です。脳神経外科医 井上靖章が、名前でも条件でもなく“価値観”で新しい道を選んだ理由を綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第9回。
「去った話」ではなく、「選んだ話」
医師として13年と半年。研修医として拾ってもらい、育ててもらい、部長として働いた、医師人生のすべてだった場所を、離れる決断をしました。
理由は、一つではありません。人生の節目というものは、いくつもの流れが重なって、ある日、渡るべき橋の形になるものです。けれど、突き詰めていくと、残るのは、たった一つの願いでした。自分が信じる医療に、もっとまっすぐ向き合いたい。それだけです。
医師人生のすべてを過ごした場所を離れるのは、家を一軒、まるごと引っ越すような決断でした。軽い気持ちで決めたと思われたくないので、先に書いておきます。離れることに、後ろ向きな気持ちはありません。育ててもらった恩は、変わらず胸にあります。第8回で書いた「第二の父」山﨑誠先生のことも、これからもずっと大切に抱えていく。だから今日書きたいのは、これから私が立つ場所の話です。これは、選んだ話です。
名前でも、条件でもなく
では、新しい場所を、私はどう選んだのか。ここからが、今日の本題です。
有名かどうかでも、条件の良し悪しでもありませんでした。かつて研修先を選んだときもそうだったように、私はそういう物差しを、あまり信じていません。今回の決め手は、人と、その人たちが大切にしている価値観です。
実のところ、環境が変わると決まってから、ありがたいことに、いくつものお声がけをいただきました。感謝しながら、一つひとつと向き合ううちに、自分の中の判断基準が、澄んでいくのが分かりました。私は次の場所で、何をしたいのか。誰と、どんな医療をしたいのか。選択肢に迷ったときは、選択肢を見比べるより、自分の軸を先に磨くほうが早い。13年前の研修先選びで学んだことを、もう一度、実地でやることになったのです。
口をついて出た、本心
あるとき、問われて、私はこんなことを口にしました。条件の良し悪しよりも、声をかけてくれた井上卓郎先生や相馬俊臣先生、そして温かく迎えてくれた湖東のみなさんのもとで、さらによい医療を目指せること。それこそが自分にとっての価値なのだ、と——。
その人たちのもとで、また一から始められること。それが、私にとって、何よりの“待遇”なんです。
本心でした。立場や肩書きをいったん手放して、信頼できる人たちの中で、また積み上げていく。これ以上の安心は、私にはありません。人生の大きな決断ほど、最後は条件表では決まらない。「誰と働くか」で決まる。研修先を選んだあの日から、私の物差しは、実は一度も変わっていないのです。
誰と働くか、という基準
湖東記念病院の脳神経外科には、井上卓郎先生がいます。ご縁は今に始まったものではなく、私が以前所属していた病院の頃から、5年以上にわたって症例の相談をし、一緒に学んできた先輩です。長い時間をかけて人柄を知っている相手のもとで働ける。その安心は、私にとって、どんな好条件にも代えがたいものでした。
そして、昴会の会長の、相馬俊臣先生。お二人がどういう方かは、賛辞を並べるより、いずれ稿を改めて、別の形でお伝えしたいと思っています。
ここでは一つだけ。私が惹かれたのは、立派な経営方針のような大きな話より、目の前の一人を、どう大切にするかという、もっと手ざわりのある価値観のほうでした。それが、私の信じてきたものと、まっすぐ重なったのです。
大きな決断の前には、必ず、直接お会いして話しました。仕事の条件の話は、ほとんどしていません。どんな医療をしたいか。この地域に何が足りないか。そういう話ばかりが、時間を忘れて続いた。条件の交渉が弾む相手より、理想の話が弾む相手と働きたい。帰り道、答えはもう、半分出ていました。
湖東記念病院という場所
そうして選んだ湖東記念病院は、滋賀県東近江市にあります。琵琶湖の東岸、彦根や近江八幡にほど近い、田園の広がる土地です。この病院は、脳神経外科に、長く本気で取り組んできました。頭蓋底手術、三叉神経痛や顔面けいれんに対する微小血管減圧術、ガンマナイフによる治療、水頭症の治療など、地域の脳神経外科医療を、地道に支えてきた場所です。専門性の高い治療を、この規模の病院がこの土地で続けてきたこと自体が、静かな志の証明だと私は思いました。
ここでなら、私が積み重ねてきたもの、開頭手術と脳血管内治療の両方を使う、脳動脈瘤治療を、滋賀・湖東・東近江の地域の患者さんに、まっすぐ届けられる。そう感じました。着任して、外来を始め、手術場に立ちました。新しい手術室の勝手を覚え、新しい仲間の名前を覚え、一つずつ、この場所の医師になっていく。その途中に、いまもいます。
地域医療の、切実さ
地域の医療には、都会とは違う切実さがあります。脳卒中は時間との勝負の病気ですが、広い地域では、遠くの大病院まで運ぶ時間そのものがリスクになります。高度な治療が「通える距離」「運ばれて間に合う距離」にあること。それは、都会では当たり前でも、地域では、誰かが担わなければ成り立たない当たり前です。私がこの土地で二刀流を続ける意味は、突き詰めれば、そこにあります。東京や大阪と同じ水準の脳動脈瘤治療を、この湖の東で。大げさでなく、それが私の新しい仕事の一行目です。
新しい土地で、また一から。けれど、やることは変わりません。目の前の患者さんに、自分の家族にも提供できる水準の医療を差し出す。場所が変わっても、この一行だけは、同じです。
外来に来られる患者さんたちの、飾らない話しぶりも、この土地の距離の近さも、私には合っている気がしています。「先生、どこから来はったん」と聞かれて、大阪の堺です、と答えると、たいてい少し場が和む。関西弁どうし、話が早いのです。
もう一度、見知らぬ土地で
新しい生活を組み立てながら、ここで、13年前の自分をよく思い出します。
あのころの私は、地縁もない関東で、山﨑先生に拾ってもらった、ただの研修医でした。持っていたのは、野望と体力だけ。誰かに選ばれ、誰かに信じてもらい、誰かに背中を押されて、世界へ出ていった。振り返れば、あの13年は、人の厚意の上を歩かせてもらった時間でもありました。
そして今、私はまた、地縁もない滋賀の地に立っています。琵琶湖の東側、田園と山並みの続く、静かで豊かな土地です。朝の通勤路から見える湖の広さには、いまだに少し驚きます。関西で生まれ育ったのに、この県のことを、私はほとんど知らずに生きてきました。知らない土地に住むことは、40歳を前にした人間にとって、思いのほか新鮮な経験です。
状況は、13年前とどこか似ている。けれど、決定的に違うことが、一つあります。今度は、自分の意志で、自分の価値観で、この場所を選んだということです。
選ばれる側だった人間が、自分の足で選ぶ側になった。13年という時間で変わったのは、たぶん、そこのところです。肩書きや、積み上げたものの大きさから離れて、自分が、何を大切にしたいかを、自分で選べるようになった。13年分の技術と経験は、そのための、選ぶ自由を私にくれました。それが、私にとっての成長なのだと思います。
おわりに — 滋賀で、これから出会うあなたへ
最後に。滋賀、湖東、東近江、彦根や近江八幡の地で、これからお会いするであろう患者さんへ、ご挨拶を。
私はこの場所に、誰かに言われて来たのではありません。自分で選んで、ここに来ました。信じる医療を、この土地で、長くやっていくために。
脳動脈瘤や脳の病気のことで不安を抱えている方は、どうぞ、構えずに外来へいらしてください。あなたの画像を一緒に見て、選択肢を平らに並べて、考える——それをこれから、この土地で、ずっとやっていきます。
この土地で積み重ねた時間は、まだ長くありません。だからこそ、一から、ていねいに信頼を積み重ねていきたい。その最初のページは、あなたと一緒にめくりたい。
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