茨城県牛久市に、私が実家のお墓より足しげく通うお墓があります。「第二の父」山﨑誠先生が眠る場所です。そこで交わしてきた報告と、果たせなくなった約束の行方を、脳神経外科医 井上靖章が綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第17回。
実家のお墓より、通っている場所
茨城県牛久市。それまで訪れたことすらなかったその土地に、私は何度も通っています。実家の墓参りより、頻繁に。カーナビはもう要りません。国道からの曲がり角も、花を買う店も、決まっています。道を覚えるほど通う場所が、血のつながらない人のお墓だというのは、我ながら、不思議な人生だと思います。
そこに、山﨑誠先生が眠っているからです。第8回に書いた、私の「第二の父」。研修医だった私を拾い、世界への挑戦を応援し続けてくれた恩人です。恩返しは、いつでもできると思い込んでいました。世界で腕を磨いて、成長した姿を見せることが最大の恩返しだと、疑いもしなかった。恩人の時間が、自分の成長を待ってくれるとは限らない。先生は2018年の11月に亡くなり、私が米国へ渡る姿を見ていただくことは、できませんでした。
今日は、そのお墓の前で私が重ねてきた報告のことを書きます。彼岸の季節に、ちょうどよい話かもしれません。
最初の報告 — 二つの言葉
米国での勤務を終えて帰国した私が、真っ先に向かったのが、先生のお墓でした。場所を知る事務の先輩たちに頼み込んで、連れて行ってもらったのです。
この「連れて行ってもらった」ということ自体が、いま思えば、先生の人柄の証明でした。亡くなって何年も経つのに、お墓の場所を覚えていて、頼めばすぐに案内してくれる人たちが、職場にいる。畏れられ、慕われ、亡くなってなお、人の輪の真ん中にいる。お墓の場所を大勢が知っている人生を、あの人は生きたのです。
準備した言葉と、出た言葉
お墓の前に立ちました。石に、山﨑誠の名前が刻まれています。準備していた言葉は、それを見た瞬間に、一度、全部消えました。叱る声も、喜ぶ声も、人一倍大きかった人が、この石の下で黙っている。そう思ったとき、本当に亡くなったのだという実感が、ようやく、遅れて追いついてきました。手を合わせて、しばらく黙りました。それから、声には出さずに、心の中で語りかけたのです。伝えた報告は、二つ。一つめは、お礼でした。
先生のサポートのお陰で、野望が果たせました。
私は荒くれ者で、人の意見を聴かない人間でした。それでも先生のもとで経験を積んで、少しは変わった。人間的にも、成長できたと思う。そう伝えました。二つめは、約束です。
先生が宝物にしていたこの病院を、もっと良くします。見守っていてくださいね。
先生が一代で築き、慈しんでいた病院を、今度は私たちが育てていくのだと、本気で思っていました。あの日の墓前で、それは自然に出てきた言葉でした。帰国の報告が、そのまま次の誓いになる。恩というものは、受け取った瞬間に、次の約束を生むもののようです。
妻と、もう一度
帰宅して墓参りの話をすると、妻が言いました。「私も、行きたい」。
妻は、私の話の中で、何度もこの人に出会っています。人生の要所要所に、必ず現れる恩人として。後日、二人で改めて牛久を訪れ、並んで手を合わせました。それからです。牛久のお墓が、私たち夫婦の「通う場所」になったのは。
妻と並んで手を合わせる墓前は、一人のときと、少し違いました。私の恩人は、私たち家族の恩人でもある。先生の応援がなければ、私たちの米国での日々も、いまの暮らしも、なかったのですから。帰り道、妻とぽつぽつ交わす先生の思い出話は、車の中を、少し温かくします。
手を合わせて報告する内容は、その時々で変わりました。うまくいったこと。迷っていること。子どもが生まれたこと。新しい術式に挑んだこと。力の及ばなかった日のことも。不思議なもので、墓前に立つと、頭の中が整理されるのです。この人に恥ずかしくない選択をしているか。それが、私にとっての物差しになっていました。
果たせなくなった約束
そしてこの春、私はあの病院を離れる決断をしました。
「この病院を、もっと良くします」。墓前で交わしたあの約束を、私はもう、あの場所では果たせません。決断のあと、牛久へ向かう足は、少しだけ重かった。何と報告すればいいのか。車の中で、ずっとそればかり考えていました。言い訳めいた言葉を、頭の中でいくつも並べては、消す。あの人は、言い訳がいちばん嫌いな人でしたから。見慣れた国道の曲がり角が、その日は、いつもより早く来た気がしました。結局、用意した言葉は全部やめにして、持って行くのは事実と決意だけ。
叱られるなら、ここで
お墓の前に立って、花を替え、手を合わせる。病院を離れました、と、まず事実だけを伝えました。それから、目を閉じたまま、待ちました。叱られるなら、ここで叱られる。そのつもりでいたのです。
何も、来ませんでした。責められている感じが、しない。あるのは、静けさだけでした。あれほど声の大きかった人の前で、私は、静けさを聞いていました。その静けさの中に、ふと、生前の言葉が戻ってきたのです。
俺の代わりに挑戦して来い。
渡米の野望を語る研修医に、先生がかけてくれた言葉です。「この病院を」と、あの日、私は約束しました。けれど、先生が本当に大事にしていたのは、建物だったのだろうか。自分の代わりに外へ出て挑む若者を、誰より喜んだ人です。先生が遺したものは、建物ではなく、「若い人間を信じて、背中を押す」という生き方でした。だとしたら、私が受け取ったものは、場所には縛られない。先生から受け取った応援の流儀は、私が働くところなら、どこへでも持っていける。第10回に書いた「口は出さない」というあの流儀ごと、私は移動できるのです。
約束は、破られたのではなく、形を変えたのだと思うことにしました。いえ、あの人なら、そう言ってくれる気がしたのです。「俺の代わりに」と言った人が、若い者の行き先に線を引くはずがない。
誓いの、更新
だからその日、私は墓前で、新しい報告をしました。
先生から受け取ったものを、今度は私が、次の誰かに渡します。場所は変わりますが、中身は変わりません。
滋賀の湖東の地で、私はいま、新しい仲間たちと一緒に手術をしています。この先、誰かが何かに挑戦したいと打ち明けてくれたとき、私は真っ先に、あの人の顔を思い出すでしょう。詳しい事情を尋ねる前に、まず背中を押せる人間でいられるか。私の中の山﨑誠は、そうやって生き続けています。
受け取ったものを次へ渡す。言葉にすると綺麗ですが、実際には、我慢と勇気の要る仕事です。若い人の無謀な計画を聞いて、リスクを並べたくなる口を閉じる。うまくいく保証のない挑戦に、「応援する」と先に言ってしまう。渡す側に回って初めて、先生が何十年も続けたことの重さが、少し分かってきました。
報告する相手がいる、ということ
墓前で頭が整理されるのはなぜだろうと、考えたことがあります。たぶん、こういうことです。人に報告するつもりで自分の現状を言葉にすると、ごまかしが利かなくなる。しかも相手が、自分を丸ごと信じてくれた人なら、なおさらです。「あの人に何と報告するか」を考えることは、「自分はいま、どう生きているか」を点検することと、ほとんど同じなのです。牛久からの帰り道、私はいつも、行きより少しだけ姿勢よく運転しています。
これは、亡くなった人に限りません。あなたにも、いるのではないでしょうか。恩師、祖父母、かつての上司。「あの人に、いまの自分を報告できるか」と考えたとき、背筋が伸びる相手が。その人の存在は、会えるかどうかに関係なく、あなたの現在地を測る基準点になってくれます。私にとっての牛久のお墓は、その基準点の、目に見える形なのだと思います。
おわりに — 彼岸の墓前で
お墓は、亡くなった人のためにあるのだと、昔は思っていました。いまは、少し違う気がしています。あそこで襟を正しているのは、いつも、生きている側なのです。
彼岸の季節です。もし、あなたにも報告したい人がいるなら、お墓でも、仏壇でも、心の中でも構いません。近況を、一つ伝えてみてください。声にした瞬間、その報告はたぶん、あなた自身への問いに変わります。いまの生き方を、あの人に見せられるか、と。その問いと一緒に生きることを、人は「故人に見守られている」と呼ぶのだと、私は思っています。
墓前への報告は、これからも続きます。次に牛久へ向かう日も、私は国道からの曲がり角を、いつものように曲がって、いつもの店で花を買うでしょう。持っていくのは、滋賀での仕事の話です。うまくいった話だけでなく、うまくいかなかった話も。あの人は、格好をつけた報告より、そちらのほうを喜ぶ人でしたから。
帰り道は、また、行きより少しだけ姿勢よく。
