「迷ったら、困難な道を」、札幌禎心会病院の谷川緑野先生に教わったこの言葉が、脳神経外科医としての私の背骨になっています。半年間の武者修行で見た師匠の背中を、脳神経外科医 井上靖章が綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第14回。
「半年で、何ができるんだ?」
専攻医のはじめの頃、私は口ぐせのように言っていました。「もっと上手くなりたい。札幌禎心会病院の谷川緑野先生の下で、じかに学びたい」と。脳動脈瘤の手術を志す者にとって、その名は特別です。国内外から見学者が絶えない手術室。あの人の手元を、この目で、じかに見たい。若い私の願いは、それに尽きました。願うだけなら、誰でもできます。問題は、口に出し、頼みに行くかどうかでした。
ようやく本人に話せる機会が来たとき、私は思い切って尋ねました。先生のもとでトレーニングをしたい。行ってよろしいでしょうか——。谷川先生は、快諾してくださいました。ただし、私に許された期間は、研修の都合で半年。そこで修行する医師たちが、ふつう2年以上を過ごす場所です。先生は言いました。
半年で、何ができるんだ? 半年だと、病院に慣れた頃に終わるぞ。
そのとおりだと思いました。半年は、修行の単位としては中途半端に短い。断られても仕方のない頼みです。けれど、先生は続けたのです。
おまえ次第だ。前例がないなら、おまえが半年で技術を習得してみろ。
突き放しているようで、扉は開けてある。私は、谷川先生のこういうところが好きです。できない理由を並べるのは簡単で、条件が揃うのを待っていたら、人生は待合室で終わってしまう。ならば、前例のほうを作ればいい。2か月後、私は雪の札幌で、アパート暮らしを始めていました。
背中で教える人
札幌での半年は、単純な暮らしでした。病院とアパートの往復。手術のある日は手術室に立ち、ない時間は動画と文献。半年しかない人間に、寄り道の予算はありません。雪の深い土地で、私の毎日はたぶん、修行僧のそれに近かったと思います。それでも、不思議と苦しくなかった。見たいものが毎日目の前にある生活は、それだけで満ちているのです。
谷川先生は、口数の少ない人です。手取り足取り教えてくれるわけではありません。それなのに、あの半年で教わったことの量は、私のキャリアのどの時期よりも多かったかもしれません。
外来も、病棟も、カンファレンスでのプレゼンも、看護師さんとのやりとりも。あらゆる仕事を完璧にこなすのが当然で、その姿勢の積み重ねが、あの緻密な手術につながっている。先生はそれを、言葉ではなく背中で示す人でした。
手術室での先生は、静かでした。難所でも声を荒らげない。手が止まらない。あの静けさは、才能というより、準備の量なのだと、そばで見ていて分かりました。すべての場面を事前に頭の中で通過してきた人だけが、本番で静かにしていられる。この発見は、小心者の私に、大きな希望をくれました。静けさなら、準備で買える。才能は真似できなくても、準備の量なら、真似できるからです。
映像を、擦り切れるまで
私は、その背中を映像でも追いかけました。手術の時間以外は、ひたすら谷川先生の手術動画を見て、動きをなぞるのです。今回は中大脳動脈瘤、と決めたら、何十本もの動画を最初から最後まで、一時停止と巻き戻しを繰り返しながら、すべての動作について「なぜこの動きなのか」を研究する。道具をどう持ち、どの角度で、どのくらいの速さで進めるのか。しまいには、先生が手術中のどこでどんな冗談を言うのかまで、覚えてしまいました。
ノートも作りました。動画で見つけた動きの意味を書き留めて、実際の手術室で答え合わせをする。「なぜ今、器具を持ち替えたのか」「なぜこの角度から進めるのか」。仮説を立てて観察し、外れたらまた動画に戻る。観察というのは、授業料のかからない、最高の教育です。教わる時間が半年しかないなら、盗む速度を上げるしかない。あの期間に身についた「見て、仮説を立てて、確かめる」という学び方は、その後、米国でも、新しい術式を覚えるときも、ずっと私の武器になりました。
迷ったら、困難な道を
さて、その谷川先生の教えの中で、私がいちばん大事にしているものがあります。
迷ったら、困難な道を。
誤解されやすいのですが、これは「苦労を買って出ろ」という根性論ではありません。患者さんに関する判断で迷いがあるとき、本当はどちらが正解か、医師は内心もう分かっている、という話です。
たとえば、より確実だけれど手間のかかる方法と、そこそこで済むけれど楽な方法。迷っているように見えて、正解は最初から分かっている。それなのに、大変だから、時間がないから、これでも十分だからと、医師の側の都合で楽な道を選んでしまう誘惑が、この仕事には常にあります。
迷ったら、困難な道を。それは、自分に言い訳を許さないための言葉です。口数の少ない谷川先生が放つ静かな迫力は、医師人生のすべてをこの方針で貫いてきたことから来るのだと、私は思っています。
この言葉の効き目は、手術のような大きな判断だけではありません。むしろ日常の、小さな分岐でこそ試されます。疲れた夜、カルテの記載を今日仕上げるか、明日に回すか。説明が伝わりきらなかった気がする患者さんのところへ、もう一度足を運ぶか、まあいいかと流すか。どちらでも咎められない場面で、どちらを選ぶか。手術の腕は手術室で磨かれますが、医師としての器は、たぶん、この誰も見ていない小さな分岐で作られるのだと思います。
半年の、答え合わせ
「半年で、何ができるんだ?」。最初の問いに、いま答え合わせをするなら、こうなります。
先生の予言は、当たっていました。病院に慣れた頃に、半年は終わりました。技術のすべてを持ち帰れたとも、思っていません。それでも、確かに持ち帰ったものが二つあります。一つは、動画と観察で技術を盗む方法。もう一つが、「迷ったら、困難な道を」という基準です。技術は増やせますが、基準は、出会わなければ一生手に入らない。あの半年は、技術の研修である以上に、基準の研修でした。そして基準というものは、荷物にならないくせに、一生持ち歩けるのです。
いつしか、迷わなくなった
札幌から戻って、10年近くが経ちました。アパートを引き払う日、荷物はほとんど増えていませんでした。増えたのは、ノートと、頭の中身だけ。それで十分すぎる半年でした。
札幌で覚えた「見て盗む」は、帰ってからも続きました。そして、あの言葉は、ずっと残っています。
あの言葉は、その後も、私の分岐点のたびに現れます。米国に挑むかどうか。難しい手術を引き受けるかどうか。慣れた場所を離れて、新しい土地で一から始めるかどうか。そのたびに、楽な道と困難な道が並び、私は困難なほうを選んできました。選んだ直後は、毎回ちゃんと後悔しかけるのですが、数年経って振り返ると、あのとき困難な道を選んだ自分に、必ず感謝することになる。この追認が積み重なると、基準は「教わったもの」から「自分のもの」に変わっていきます。
困難の先の、静けさ
そして、不思議なことに気づきます。困難な道を選び続けていると、ある時期から、迷うことそのものが減っていくのです。基準が体に染みつくと、選択は速くなる。迷いに使っていた時間を、そのまま準備に回せるようになる。いまの私が手術方針で長く迷わないのは、決断が軽いからではなく、あの半年間に基準を叩き込まれたからだと思っています。
いまでも、難しい動脈瘤を前に計画を練るとき、頭の中で、あの動画たちが回り出すことがあります。この場面で、あの人ならどの角度から行くか。手品のように滑らかだった、あの持ち替えは使えないか。半年の武者修行は、とっくに終わりましたが、私の頭の中の「谷川図書館」は、いまも開館しています。師匠から借りたままの蔵書で、私は今日も手術をしているのです。
これは、患者さんにとっても無関係な話ではありません。あなたの治療方針を考えるとき、私の中には必ずあの声が響いています。楽な道に流れていないか。医師の都合で選んでいないか。あなたにとっての最善が困難な道なら、私はそちらを選び、その困難を引き受ける準備をします。私の修行時代の話は、取材記事でも詳しく語りましたが、すべてはこの一言に集約されます。
おわりに — 声は、消えない
谷川先生と過ごした半年は、私のキャリアでいちばん苦しく、いちばん濃い時間でした。二度と戻りたくないと思うほどしんどくて、それでも、もう一度人生をやり直すとしても、迷いなく行くと言い切れます。
迷ったら、困難な道を。
今日も、その声で選んでいます。
