理想の医師の姿を体現するように廊下で足を止める医師(井上靖章 手記)

ドクター・アマディオ — 私が出会った理想の医師

あなたにとって、理想の医師とは、どんな人でしょうか。脳神経外科医 井上靖章が、メイヨークリニックで出会った一人の医師、ドクター・アマディオの姿を通して、「理想の医師」とは何かを綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第6回。

早歩きで、廊下を行く人

メイヨークリニックの廊下を、いつも早歩きで進んでいく医師がいました。ドクター・アマディオ。整形外科の部門を取り仕切る、いわゆるトップランナーの医師です。

臨床で外来や手術に忙殺されながら、週に二度ほど、私たちの研究室のミーティングにも顔を出す。みんなに気を配り、的確な指示を出して、また風のように去っていく。メイヨークリニックに留学していた大学4年の私にとって、それは、初めて見る種類の医師でした。

第1回で、私はこの人の「道案内」の場面に、一度だけ触れました。今日は、その場面の“続き”として、アマディオという人そのものを書いてみたいと思います。(連載のこれまでの回もどうぞ)

早口、そして「結論から」

第一印象は、とにかく早口で、早歩き。部屋に入ってきたかと思うと、要件を一息に組み立てて、もうみんなとディスカッションが始まっている。話が長くなる人がいれば、「結論から」と促す。それくらい、時間に厳しい人でした。

当時の私はまだ医学生で、専門用語もよく分からず、英語にも自信がない。正直に言えば、少し怖いと感じることさえありました。

でも、その早口でとっつきにくい印象は、すぐに別の感情に変わりました。ものすごい速さの頭の回転から繰り出される質問や指示が、いちいち的確で、的を射ている。しかも、相手のことをよく慮った言葉だった。「ああ、この人は、本当にすごい人だ」。理屈より先に、感覚で、そう感じていました。

研究室のミーティングでも、それは同じでした。医学生の拙い報告にも、先生はきちんと視線を合わせ、要点を汲み取り、次にやるべきことを短い言葉で示してくれる。時間に厳しい人の「短さ」は、冷たさではなく、相手の時間への敬意なのだと、あのとき知りました。

それでいて、いちばん下の私にまで

当時の私は、どちらかといえば体育会系の世界で育ってきました。良くも悪くも、「目上の人は厳しいもの。その指示には絶対に従う。言い返すことなどない」。そんな、少し昭和的な価値観を持っていたと思います。

アマディオ先生も、能力が高く、自分にも他人にも厳しい人でした。だからこそ、なおさら驚いたのです。その一見おそろしい人が、一緒に働く看護師や研究者だけでなく、東洋から来た、何者でもない一医学生の私にまで、親身に声をかけてくれる。「休みは取れているか」「週末は何をしているのか」と、折に触れて。

それは、「偉ぶらない」という言葉だけでは足りません。立場のいちばん下にいる人間まで、ひとりの“人”として、きちんと扱ってくれている。その温かさに、私は驚き、そして、嬉しかった。あの「休みは取れているか」の一言に、どれだけ救われたか。異国で気を張り続けていた学生には、業績の話より、その一言のほうが、ずっと深く届いたのです。

能力や、仕事の付き合いの前に——まず、人として向き合う。

自分が誰かにそうしてもらえて嬉しかったように、私も人と関わっていきたい。そう自然に思うようになったのは、この経験からです。

時間に厳しい人が、足を止めた

第1回に書いた、あの道案内の場面に、もう一度だけ戻ります。今度は、場面そのものよりも、その“意味”の話です。

会議で「結論から」と急かすほど時間を惜しむ人が、見ず知らずの人の道案内に、何分も足を止めた。最初、私はその光景を、驚きと、少しの困惑とともに見ていました。近くにいた私に「案内してやれ」と言って済ませることもできたはずです。でも彼は、自分から声をかけ、笑顔で、その人を送り届けた。

長いあいだ、私はそこに矛盾を感じていました。けれど今は、こう思います。あれは矛盾ではない。本来、両立していなければならないものだったのだ、と。

忙しさは、目の前の人を後回しにする理由にはならない。

忙しくても、人を思う。組織を大切にするリーダーだからこそ、困っている人の前では、当然のように足を止める。それは打算とは違います。プロフェッショナルなら自然とそうしてしまう、というメンタリティの問題なのだと思います。

権力を、優しさのために使う

力を持つと、人は変わりがちです。高圧的になったり、相手が従って当然だと考えたり。そういう人は、当時も、そして今も、決して少なくないと感じます。

だからこそ、です。力を持つ人が、その力を——いちばん目を向けられにくい、弱い立場の人を守るために使う。それは当然のことであり、同時に、とても得がたいことです。

患者さんは、病を抱えた瞬間、ともすれば社会の中で弱い立場に置かれます。その人を救うのが医師の仕事である以上、力を優しさのために使うのは、本来あたりまえのこと。アマディオ先生は、それを、言葉ではなく振る舞いで教えてくれました。「こういう姿が、プロフェッショナルなのだ」。私もそうありたい、と思いました。

大学4年の、まだ何者でもない時期に、この「あたりまえ」の実物を見られたことは、幸運でした。理想というものは、言葉で教わると説教になりますが、実物を見てしまうと、目標になる。私の場合、医師としての目標の原型は、教科書より先に、あの廊下に立っていたのです。

私にとっての「理想の医師」

実を言うと、私はアマディオ先生の手術を見たことがありません。当時は医学生でしたから、見たところで、その腕が優れているのかどうかも分からなかったでしょう。メイヨークリニックであれだけの地位を築き、大きな研究を率いていた人ですから、整形外科医としても、きっと素晴らしかったのだろうと想像するばかりです。

けれど、私が本当に感銘を受けたのは、技術でも、知識でもありませんでした。医師としての“立ち振る舞いの根っこ”。どう在るのがプロフェッショナルなのか、ということを、自然に示してもらった。その一点です。

だから、私にとっての理想の医師を、一言で言うなら、こうなります。目の前の患者さんに全力で向き合うのは、当然のこと。その上で、普段から、困っている人に「何かできることはないか」と自然に思える人。

この基準は、医師選びの場面でも、案外そのまま使えると思っています。診察室での説明が丁寧かどうかは、もちろん大事です。でも、廊下ですれ違うスタッフへの態度、待合室の患者さんへの目配り。診察室の「外」での振る舞いにも、その医師の根っこは表れます。

義務だからではない。自然と、そうしてしまう。そういう人を、私は「理想の医師」だと思うようになりました。

いま、受け継ぐ番になって

私はいま、新しい場所で、働かせてもらっています。あの廊下から、16年が経ちました。アマディオ先生から受け取ったものを、どう実践したいか。あまり語りすぎると、自分でも気恥ずかしくなるので、さらっと書きます。

技能や経験を重ね、地位を得るほど、できることは増えていきます。だからこそ、一緒に働く人、病院を訪れる患者さんやそのご家族。たとえ自分の担当でなくても、その人たちが少しでも快適に、少しでも良い医療を受けられるように、さりげなく配慮できる。そんなプロフェッショナルでありたい。今度は、私が手渡す番です。

幸い、この「手渡し」は、大げさな設備も、特別な才能も要りません。廊下で足を止める数分と、ドアを押さえる数秒があれば、今日から誰にでもできる。理想の医師像の中で、これほど実行のハードルが低く、これほど続けるのが難しいものも、ないのですが。

おわりに — ドアを押さえる、その手

じつは、留学先で出会った「理想の医師」は、アマディオ先生だけではありませんでした。

のちにハーバード大学医学部ブリガム・アンド・ウィメンズ病院で私の上司になったサルタン先生たちも、同じでした。車椅子の患者さんが後ろから来れば、当然のように笑顔でドアを押さえる。エレベーターを、当たり前に譲る。彼らにとっては、ごく自然な所作なのでしょう。

恥ずかしながら、当時の私はその一つひとつを、「なんて素晴らしいんだろう」と、いちいち、まぶしく見ていました。理想の医師とは、特別な才能の話ではないのかもしれません。困っている人の前で、自然に足を止め、手を差し伸べられるかどうか。——きっと、そこにこそ宿るものなのだと思います。

あの廊下で見た、早歩きの医師の、ふと止まった足。16年経った今も、私は自分の足が止まるたび、それを思い出します。

理想の医師について綴る脳神経外科医 井上靖章

井上靖章(いのうえ やすあき)

脳神経外科医・医学博士。日本脳神経外科学会専門医・指導医、日本脳神経血管内治療学会専門医、日本脳卒中学会専門医。京都大学医学部卒業。米国メイヨークリニックでの研究研修、ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院フェローを経て、湖東記念病院 脳神経外科部長。開頭手術と脳血管内治療の両方を自分の手で行う「二刀流」の脳神経外科医。治療方針は、開頭手術・脳血管内治療・経過観察のすべてを並べて示すことを原則としている。

プロフィール・実績の詳細 / 連載「手記」一覧 / X(@yasuaki_neuro)

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