脳の手術を控えて、眠れない夜を過ごしていませんか。手術への不安は、けっして特別なものではありません。脳神経外科医 井上靖章が、執刀医として、手術を控えた患者さんに本当に伝えたい3つのことを綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第5回。
「脳を開ける」と言われた、その夜に
「脳を開ける」と言われたら、誰だって怖い。体のどこであれ、切られるというのは怖いものです。まして脳は、私たちが「自分」であることそのものを支える、神秘的な臓器です。みんな、脳トレをしたり、少しでもいい状態に保とうとしている。その脳に、直接、人の手が入る——考えただけで、恐ろしいことだと思います。
手術のあと、麻痺が残るんじゃないか。何か後遺症が出るんじゃないか。そんな不安が、次々に浮かぶでしょう。手術の前夜、あるいは当日の朝、ベッドの上でその手術への不安と向き合っている方は、本当に多いと思います。
私はいつも、患者さんがその不安を抱えていることを“前提”にして、向き合うようにしています。今日は、手術を控えたあなたに、執刀医として伝えたいことを書きます。(これまでの連載はこちらから)
執刀医も、怖い
まず、正直に書きます。執刀する側にも、怖さはあります。
手術は、その人の命をかけて行うものです。怖さがないと言ったら、嘘になる。脳の手術は、ほんのコンマ数ミリのずれで、麻痺が残ったり、大切な機能が失われたりすることがあります。
けれど、「怖いからビクビクしている」のとは違います。その怖さを正しく知っているからこそ、私たちは万全の準備をして手術に臨みます。知識を蓄え、経験を重ね、患者さんお一人ずつの画像を読み込み、不測の事態が起きないように備える。漠然と怖がるのではなく、怖さの中身を知って、それに備える。それが、執刀医の怖さとの向き合い方です。
手術を控えたあなたに、伝えたい3つのこと
その1 — 安全に「できる」と確信する手術だけを、お引き受けしています
手術は怖い。やる側も、その怖さを知っています。あなたが不安なことも、分かっています。だからこそ、私たちは万全の準備をし、万全の体制を整えて臨みます。
そして、「できない」と思った手術を、引き受けることは決してありません。私は、手術をお引き受けするとき、「十分、お任せください」「安心して受けてください」と心から言えるだけの準備をします。そう言える手術だけを、お引き受けしています。
怖いと思います。それでも、本当に心の底から、安心してください。
その2 — あなたは、ひとりで戦うのではありません
手術は、患者さんがひとりで戦うものではありません。執刀医とあなた、二人だけで戦うものでもない。
手術室には、助手の脳神経外科医がいて、麻酔科の先生がいて、看護師さん、技師さんがいます。病棟にも、外来にも、あなたを支えるスタッフがいる。たくさんの人が、あなたの手術が安全に終わるように動いています。チームで臨む以上、あなたは孤独ではないし、ひとりで不安を抱え込む必要もありません。
手術の朝、私が手術室に入ると、麻酔科の先生がモニターの前でうなずき、看護師さんは器械を並べ終えて待っている。技師さんが装置の最終確認をしている。誰かが「おはようございます、今日もよろしく」と声をかける。その光景を見るたび、思うのです。この方は、これだけの人に守られて、これから眠るのだ、と。
みんなで、その不安を越えていきましょう。
その3 — 私たちは、今日も手術の技術を磨いています
私たちは、あなたの手術の前夜だけ準備しているのではありません。日常的に、手術の技術を磨き続けています。海外のトレーニングコースでご献体を用いたトレーニングをし、学会や勉強会で手術の情報を交換し、新しい道具や、新しく報告された合併症とその防ぎ方を学ぶ。顕微鏡の下で細かい操作を繰り返し、一つの症例を終えるたびに振り返り、「次はもっと良く」と立ち向かう。
そして迎える、あなたの手術。前日までに十分な画像検査を行い、それを読み込み、頭の中で手術をシミュレーションします。起こりうる合併症やトラブルをすべて想定し、「もし起きたら、こう対応する」という方針を固め、その道具まで用意しておく。手術が安全に進んでいるかを確かめる神経モニタリングも携えて、臨みます。胸を張れるだけの準備をして、あなたの前に立っています。
手術の前夜
あなたが眠れない夜を過ごしているころ、執刀医もまた、机に向かっていることがあります。
手術の前日、私は何度も、あなたの画像を開きます。血管の一本一本を、指でなぞるように追い、病変の位置や癒着の具合を確かめ、頭の中で、明日の手術を最初から最後まで通してみる。どこから入り、どの順番で進め、どこが山場になるのか。そして——もし、ここでこういうことが起きたら、どう立て直すか。起こりうる場面を、いくつも思い描いておきます。
うまくいく道筋だけではありません。つまずきかけたときの戻り道まで、用意しておく。そこまでして、ようやく私は眠ります。あなたの不安と、私の準備は、同じ夜に、別々の場所で進んでいるのです。
当たり前に終わる手術ほど、優れている
ひとつ、知っておいてほしいことがあります。当たり前に、淡々と終わる手術ほど、実は優れた手術です。
上手な人の手術には、見せ場がありません。劇的な場面もなく、静かに終わる。それこそが、患者さんにとって最も負担の少ない、良い手術です。その「何事もなく終わる」を実現するために、私たちは、あらゆるトラブルを想定して備えています。
器械を片づける音。麻酔科の先生の「終わりましたよ」という声。何事もなかったように手術が終わるその瞬間、私はいつも、静かに、ほっとしています。
こうした準備の一つひとつを、患者さんに細かくお話しすることは、あまりありません。けれども、あなたが想像している以上に、私たちは多くのものを用意して、手術に臨んでいます。それを知っていただくだけでも、少し、ふっと力が抜けるのではないでしょうか。
怖さを知る者だけが、安全に近づける
手術は、若いうちに少し上達すると、「自分は手術が上手い」と勘違いしてしまうことがあります。でも、どこかで必ず、怖い思いをする。
「あのとき上司が立て直してくれなかったら、どうなっていたか」——そう思うようなヒヤリとした経験が一度もない脳外科医は、いないのではないでしょうか。
その怖さを知っているからこそ、私たちは手術の前に、万全の準備をする。患者さんが不安なのと同じように、私たちも手術の怖さを知っている。だからこそ、より安全な手術に近づける。怖さは、敵ではありません。正しく怖がることが、安全への第一歩なのです。
手術前日のベッドサイドで
手術の前日、患者さんはもう覚悟を決めて、そこにいることが多いものです。そんなとき私は、少しでも安心していただけるよう、声をかけます。「検査も準備もすべて整っています。万全のチームでお迎えします」と、改めてお伝えする。
ある晩のことです。手術の前夜に病室を訪ねると、その方は天井を見つめたまま、眠れずにいました。「先生、こんな手術、本当に大丈夫なんでしょうか」。私はベッドのそばに腰をおろして、ゆっくりお伝えしました。検査も準備もすべて整っていること。明日は、万全のチームでお迎えすること。こうした対話は、何度もあります。
前日に眠れない方は、とても多い。「眠れないと、手術に響くんじゃないか」と、それでまた不安になる方もいます。けれど、手術中は麻酔で深く眠っていますし、全身麻酔下の手術の成績は、前夜に眠れたかどうかには左右されません。眠れないのは辛いけれど、心配いりませんよ——そうやって、不安の一つひとつに、ことばを返していきます。
ご家族にも、同じように。「万全の準備をして、全力で当たります」と改めてお話しして、一緒に安心していただけるように。これは、第2回で書いた「手術技術は裏切らない」という私の原点と、まっすぐつながっています。
おわりに — 今夜、眠れないあなたへ
もし、あなたが今夜、手術を前にして眠れずにいるのなら。その不安は、間違っていません。脳の手術を怖いと感じるのは、当たり前のことです。
ただ、覚えておいてください。その怖さは、執刀医も知っています。知っているからこそ、見えないところで、これ以上ないというくらいの準備をして、あなたを待っています。あなたはひとりではないし、たくさんの手が、あなたを支えています。
どうか、今夜は——眠れなくても、大丈夫。
明日、私たちに、あなたを預けてください。
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