メイヨークリニックへの留学で世界最高峰の病院に圧倒される医学生時代の井上靖章

世界一の病院で見た景色 — 私が「アメリカで医師になりたい」と思った3か月

大学4年の春、私はメイヨークリニックに留学しました。「医師は、しょうもない仕事」と思っていた私の人生を、その3か月が変えた。脳神経外科医 井上靖章が、世界最高峰の病院で見たものと、「アメリカで医師になりたい」と思った瞬間を綴る、連載「脳神経外科医 井上靖章 手記」第4回。

あの3か月が、何者でもなかった私を変えた

大学4年の春。私は生まれて初めて、アメリカの地を踏みました。行き先は、ミネソタ州の小さな街ロチェスターにある、世界最高峰と呼ばれる病院——メイヨークリニックです。

このメイヨークリニックへの留学のことは、連載の第1回でも少しだけ触れました。けれど今日は、その3か月を、もっと深く書いてみたい。何者でもなかった私の人生が、はっきりと向きを変えた時間だったからです。

「世界一を見てみたい」という、ただの好奇心

当時の私は、何かに絶望していたわけではありません。むしろ逆でした。高校時代にできなかった新しいこと、自由な時間、アルバイトで得たお金。見聞がどんどん広がっていくのが、ただ楽しかった。20歳前後の私は、将来を考えるより、目の前の楽しさと「世界を知る」ことに没頭していたのだと思います。

そんな私が、なぜ世界最高峰の病院へ行けたのか。きっかけは、人の縁でした。京大の武田俊一先生に「世界で一番有名な病院を見てみたい」と相談すると、阪大の菅本一臣先生を紹介してくださった。菅本先生は、偶然にも灘校の先輩で、話はその場で一気に進みました。

メイヨーに了承を得たから、思う存分、楽しんでおいで。

これが、私の人生で初めて経験した、「巨大な力で、想像もつかないほど大きなことが進んでいく」瞬間でした。力のある人が、何の見返りもなく若者に手を貸してくれる。その「男気」を肌で感じて、嬉しさと同時に、強い憧れを覚えました。自分も、いつかこうありたい、と。

動機そのものは、正直、単純です。やるなら世界一を見てみたい。トップを見て、その中で自分の立ち位置を確かめてみたい——それだけでした。

高級ホテルのような病院と、通路のグランドピアノ

到着して、まず建物に圧倒されました。当時はまだ医学部4年生。私の知る病院といえば、日本の身近な病院しかありませんでした。そのイメージと比べると、メイヨークリニックは別世界でした。

超高級ホテルのようなエントランス。見上げても天井が遠い、巨大な吹き抜け。オブジェ、大理石の床。そして、ただの通路にしか見えない場所が、人が交流し、時間を過ごせる空間になっている。そこにはグランドピアノが置いてあって、患者さんか、スタッフか、お見舞いの人か——誰かがいつも、それを弾いていました。

院内見学ツアーにも、驚きました。神妙に病院を歩くのではなく、ボランティアの人たちが「うちの医療はこんなに素晴らしい」と誇りを持って案内し、参加者も、どこか明るく、楽しみながらついていく。たとえるなら、野球場(ボールパーク)を案内されるような空気でした。医療施設に、ここまで投資し、ここまで誇りを持つ。その価値観は、当時の日本では見たことのないものでした。

揺さぶられたのは、建物だけではありません。「世界で最も優れた病院の一つ」と評される場所に、自分の知らない医療の世界が広がっている。そのことに身震いし、「医師として、まだまだ世界は広い」という、好奇心に近い期待が湧いたのを覚えています。

夢物語を、現実にしている人たち

研究室で目にした光景も、忘れられません。たとえば、手を失った方の頭に電極をつけ、考えるだけで指が動く義手を作る——そんな研究が進んでいました。当時の私には、夢物語、理想を語っているだけの話に思えた。それを、実際に作り、運用しようとしている。その規模感と、動きの速さに、圧倒されました。理想を、理想のまま終わらせない。それが、当たり前の空気として流れていたのです。

医師たちの振る舞いも、印象的でした。日本の先生方のプロフェッショナリズムも素晴らしいものですが、これは文化の違いだと思います。メイヨーの先生たちは、患者さんやご家族、看護師に対して、心の距離がとても近い。隔たりの少ない関係を、自然に築いていました。

そして、忘れられないのが——東洋から来た、何の保証もない一介の学生にすら、「困っていないか、手伝うぞ」と声をかけてくれたこと。リップサービスもあったかもしれません。それでも、立場の弱い者に当たり前に手を差し伸べる姿を、目の当たりにした経験は、今も私の中に残っています。自分も、これからの世代にこうありたい、と思うようになりました。

(廊下で道に迷う人を、足を止めて案内したドクター・アマディオの話は、また別の回で書きます。)

何もできない私が、得意なことで貢献した

研究などしたことのない私は、ラボで「何かやらせてください」と、必死に仕事を探しました。当時、興味を持って勉強していたのが、プログラミングです。データ解析を自動化する仕組みを作ったり、計算式を組んだり。今思えば、学生が少し手伝った程度のことです。けれども当時の私は、「自分の得意なことで、世界一流の現場に少しだけ貢献できた」という、大きな自信を得ました。

優秀な人たちの中でも、自分の長所で役に立てる。その経験から、私は「一人ひとりが得意なことで貢献し合える場こそ素晴らしい」と感じるようになりました。これは、今のチーム医療への私の考え方の、原型かもしれません。

もう一つ、忘れがたいのが寮での生活です。病院直結の宿には、世界中から留学生が集まっていました。お金がないので、みんな自炊です。私はイタリア人、中国人、インド人の友人と、持ち回りで料理を作り合いました。夜中、酒を飲みながら、互いの文化を語り合い、時には口論にもなる。本や映画でしか知らなかった価値観に、生身で触れる。英語漬けの毎日は、私にとって、世界を知る、かけがえのない時間になりました。

「アメリカで医師になりたい」と思った日

「アメリカで医師になりたい」。その思いは、何か一つの劇的な出来事から生まれたわけではありません。けれど、決定的に大きかった出会いがあります。東京大学から来ていた、森崎裕先生です。

森崎先生は、当時リサーチフェローとしてメイヨーにいました。私から見れば、憧れの整形外科医です。その森崎先生が、学生でしかない私にも、本当に真面目に声をかけ、食事に誘い、いろんな場へ連れていってくれた。仕事の話を聞くたび、その人柄、研究と臨床への情熱、知性——そのすべてに憧れました。こういう医師になりたい、と思ったのです。

それまでの私は、どんな医者になればいいか、そもそも医者になるべきかさえ、ぼんやりと迷っている医学生でした。それが、強い憧れを持てる場所と、憧れを持てる医師像に出会えた。

自分も、こんな場所で、こんな医師の仕事がしたい。

そう思った瞬間、進む道が定まりました。

そのためには、アメリカで医療をするチャンスがいる。私は、米国の医師国家試験であるUSMLEを受ける覚悟を決めました。それまで考えたこともなかった試験です。興味のありそうな同級生に「帰国したら一緒に勉強会をしよう」と、急いで連絡したのを覚えています。

今(2026年)、あの3か月が私に残したもの

メイヨークリニックへの留学で見た、未来への投資。立場の弱い人に、力を優しさとして使う姿勢。そして、ど田舎にありながら世界有数の医療を実現する、あの誇りとプロ意識。

2026年7月から、私は滋賀県の湖東記念病院で、新しい一歩を踏み出します。あの3か月で見たものを、ここで実装したい。とりわけ脳神経外科の教育には、同じ思いで——いや、あの時以上の思いで臨むつもりです。次の世代に、惜しみなく力を使いたいのです。

あれは、医師のキャリアが「始まる前」の出来事だった

一つ、正確に書いておきたいことがあります。医師のキャリアをtrimestersに分けると、その最初の期(1st trimester)が始まるのは、研修医になってからです。メイヨークリニックに留学した私は、まだ医学生でした。つまりあの3か月は、私のキャリアが始まる「前」の出来事です。

けれど、だからこそ意味がありました。キャリアが始まる前に、「どんな医師になりたいか」という漠然としたイメージが、より具体的に、より鮮明に、形づくられたのです。あの3か月がなければ、その後の私はなかった。

おわりに — 飛び込もうとしている、あなたへ

留学前の私の動機は、本当に他愛のないものでした。アメリカに行ってみたい。英語で暮らしてみたい。すごそうな施設を見てみたい。ただの好奇心です。それでも、行く前には想像もしなかったほど大きなものを、私はあの3か月から受け取りました。

若いうちは、世界のことも、キャリアのことも、仕事のことも、意外とよく分からないものです。その中で進路を選ぶのは、難しい。だから、挑戦したい理由が曖昧で、漠然としていても、当たり前だと思います。私もそうでした。

そういう若者に、「それで何になる」と理屈を求める大人もいます。けれど、人生は理屈だけではありません。理屈を超えたパッションが、人生を形づくることのほうが、ずっと多い。

行きたいと思うのなら、批判は気にせず、精一杯、飛び込んでみてください。きっと、行ってよかったと言えるはずです。

かつての、何者でもなかった自分に声をかけるなら、私はきっとこう言います。「どんな思いでもいい。とにかく新しい環境に飛び込んで、精一杯、見て、聞いて、経験して、楽しんでおいで」と。挑戦する若い人を、私は心から応援しています。

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メイヨークリニックへの留学を語る脳神経外科医 井上靖章

井上靖章(いのうえ やすあき)

脳神経外科医・医学博士。日本脳神経外科学会専門医・指導医、日本脳神経血管内治療学会専門医、日本脳卒中学会専門医。京都大学医学部卒業。米国メイヨークリニック留学、ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院フェローを経て、33歳で脳神経外科部長・脳卒中センター長就任。2026年7月より湖東記念病院脳神経外科部長。顕微鏡下手術と血管内手術の両方を駆使して、患者さんの人生に寄り添う医療を実践している。

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