手術室より 第21回

最後の一件

2026.10.18 読了の目安 約6分 井上靖章
この記事の目次
  1. 絡まり合った血管
  2. これが、最後かもしれない
  3. 患者さんには、いつも「最後の一件」だった
  4. いつもの一件を、最後の一件のように

脳動静脈奇形の塞栓術で、術者は何を感じているのか。この記事では、ある部屋で担当した「最後の一件」と、ルーティンに宿る重みについて、書いてみたい。

ある病院に長く勤めたのちに、そこを離れることになった時のことだ。

その病院での、最後の手術になったのは、たまたま、ひとつの血管内治療だった。脳動静脈奇形。脳の中で、血管が異常に絡まり合ってできた塊に対する、塞栓術だった。

何百件と通ってきた、見慣れたカテーテル室。いつもの装置、いつもの仲間。手技も、これまで、何度も繰り返してきたものだった。

その日が、その病院での最後の勤務だということは、頭では分かっていた。それでも、手術が始まってしまえば、いつもと同じだ。患者さんの前で、感傷にひたっている暇はない。私は、いつもの顔で、いつものように、手を動かしはじめた。

その日も、私にとっては、いつもの「ルーティン」のはずだった。

——けれど、その一件は、少し、違った。

絡まり合った血管

脳動静脈奇形というのは、少し説明のいる病気だ。

本来、脳の中では、動脈から、細い毛細血管を通って、ゆっくりと静脈へ、血が流れていく。ところが、生まれつき、その毛細血管がなく、動脈と静脈が、直接、異常に絡まり合っている人がいる。その絡まりの塊が、脳動静脈奇形だ。英語の頭文字をとって、AVMとも呼ぶ。

この塊は、ときに破れて、脳の中で出血を起こす。比較的若い人の脳出血の、ひとつの原因でもある。

二十代、三十代の働き盛りの方が、ある日突然、頭痛で倒れて運ばれてくる。その原因が、生まれた時から脳の奥に潜んでいた脳動静脈奇形だった。そういうことが、起こりうる。だからこそ、破れる前に、あるいは破れたあとに、どう手を打つかが、その人のこれからを、大きく左右する。

治療のひとつが、血管内治療による塞栓術だ。カテーテルを、その絡まりのすぐ手前まで進めて、接着剤のような塞栓物質を、そっと流し込む。うまくいくと、異常な血管の流れが、固まって、止まる。

言葉にすると単純だが、塞栓物質は、ほんの一瞬で固まる。流しすぎれば、正常な血管まで詰めてしまう。だから、ここぞ、という一点を見極めて、息を止めて、流す。何度やっても、気の抜けない手技だ。

これが、最後かもしれない

その日も、私は、いつものように、その一点を見極めた。息を止めて、指先に、ゆっくりと力を込める。画面の中で、流れ込んだ塞栓物質の影が、狙ったところで、ぴたりと止まる。うまく、固まった。

ほっと息をついた、その時だった。

ふと、こう思った。——この手技を、この部屋でやるのは、これが最後かもしれない。

そう気づいた瞬間、それまで「いつもの」だったものが、急に、ぜんぶ、特別なものに見えはじめた。

長年、同じ画面を映してくれた、見慣れた装置。その装置が動くたびに響く、低い駆動音。空調の、少し冷たい風。何百件と、横で息を合わせてくれた、仲間たちの背中。自分の指が、もう覚えてしまっている、カテーテルの感触。

「なんや、急に、寂しなってきたな」。心の中で、そう呟いた。

長く組んできた仲間とは、もう、目を見れば伝わる仲だった。手術が終わって、私が小さくうなずくと、向こうも、小さくうなずき返す。それだけで、おたがいに「無事に終わったな」が分かる。その、言葉のいらないやりとりを、この部屋で交わすのも、これが最後なのだ。そう思うと、胸の奥が、しんと、静かになった。何百件という時間が、一度に、よみがえってくるようだった。

不思議なものだ。毎日のように繰り返して、すっかり日常になっていたはずのものが、「これで最後」と思った途端に、こんなにも、いとおしくなる。

患者さんには、いつも「最後の一件」だった

その帰り道、私は、あることに気づいた。

私にとっては、何百件のうちの一件で、ようやく「最後」になって、特別に思えた、その手術。

けれど、患者さんにとっては、どの一件も、最初から、かけがえのない、特別な手術だったのだ。

考えてみれば、当たり前のことだ。私が何件こなしてきたかは、患者さんには、関係がない。その人にとっては、自分の脳を託す、その日の一件がすべてだ。何度目の手術であっても、それは変わらない。

外来で、手術の前に、青い顔をして座っている患者さんを、私は、何人も見てきた。眠れなかった、と言う人もいる。手が、小さく震えている人もいる。その緊張を、私は、いつのまにか「よくあること」として、受け流していなかっただろうか。その人にとっては、手術の前の、こわくてたまらない一夜だったはずなのに。

術者は、件数を重ねるほど、一件の重みに、慣れていってしまう。慣れることは、技術には必要だ。けれど、慣れたぶんだけ、患者さんが抱えている重さから、少しずつ、遠ざかってしまう。

「最後かもしれない」という、あの寂しさは、その遠ざかってしまった距離を、もう一度、縮めてくれた気がした。

いつもの一件を、最後の一件のように

場所が変わっても、私のやることは、変わらない。新しい部屋で、また、脳動静脈奇形や脳動脈瘤と、向き合っていく。

ただ、あの日から、ひとつだけ、心に置いていることがある。

どんなにルーティンに思える手術でも、その一件を、「最初の一件」のように、ていねいに。そして、「最後の一件」のように、いとおしく。

言うのは、簡単だ。何百件もこなしていると、どうしても、心のどこかが、すり減っていく。だから、これは、技術というより、自分への戒めに近い。手技がどれほど手になじんでも、目の前の人の怖さを、「よくあること」で片づけない。件数は、術者の自信にはなる。けれど、件数だけで、患者さんの不安が消えるわけではない。安心は、いつも、目の前のこの一件に、どれだけ心を向けているか、から生まれる。

だから、もしあなたが術者を選ぶなら、件数の多さも大事だけれど、その人が、あなた一人のために、どれだけ時間をかけてくれるかも、見てほしい。数の向こうに、あなたという、たった一人が、ちゃんと見えているかどうかを。

あなたの手術が、私にとって何件目であっても、あなたにとっては、たった一つの、あなたの手術だ。その重さを、件数の多さで、すり減らしてしまわないように。

いつもの一件を、最後の一件のように。——その気持ちだけは、どの部屋に移っても、置いてこないようにしている。

参考リンク:日本脳神経血管内治療学会 / 日本脳神経外科学会

脳神経外科医 井上靖章

井上靖章(いのうえ やすあき)

脳神経外科医・医学博士。日本脳神経外科学会専門医・指導医、日本脳神経血管内治療学会専門医、日本脳卒中学会専門医。京都大学医学部卒業。米国メイヨークリニック留学、ハーバード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院フェローを経て、湖東記念病院 脳神経外科部長。開頭手術と脳血管内治療の両方を自分の手で行う「二刀流」の脳神経外科医。治療方針は、開頭手術・脳血管内治療・経過観察のすべてを並べて示すことを原則としている。

プロフィール・実績の詳細 / 「手術室より」の記事一覧 / X(@yasuaki_neuro)

診療・ご相談のご案内はこちら

前の記事言葉のいらない、部屋
ご相談はこちら