脳の手術前夜、術者はどんな術前計画を立てているのか。この記事では、未破裂脳動脈瘤に対する開頭手術(クリッピング・バイパス・トラッピング等)から脳血管内治療(コイル塞栓術・フローダイバーター・WEB等)まで得意とする脳神経外科医として、私が画像を読む作業と手術リスクの判断について、書いてみたい。
脳手術のアプローチに、絶対の正解はない。
外来でそうお話することがある。同じ病気でも、同じ手術はひとつもない、と。
患者さんからすれば、「同じ病名なら、同じ手術ですよね?」と思われるのは自然だ。けれど、本当は、そうではない。
手術は、教科書を見れば誰でも同じようにできる作業ではなく、目の前にいるその人の脳の形を読む作業から始まっている。
数年前、未破裂の脳動脈瘤が見つかったという50代の男性、仮に田島さん(仮名)とお呼びする方の術前計画を立てていた時のことだ。私は、彼のMRI画像を、何時間でも見ていた。
瘤そのものよりも——その周辺の、脳の天井を流れる「橋渡し血管」を、見ていた。
そして、その血管の走り方を読んだ私は、彼の場合は左側から入ることを選んだ。教科書には、その種類の動脈瘤に対しては「右側からのほうが標準的」と書いてある。
それでも、左から入った。
なぜそう決めたか。
あなたの脳の天井を、流れる血管
脳手術のアプローチを決めるとき、私が術前にいちばん時間をかけているのが、この橋渡し血管の読み込みだ。
患者さんの頭の中には、脳から心臓に戻る、太い静脈が走っている。
ご存じない方も多いと思うが、これは、開頭手術上、もっとも傷つけてはいけない血管のひとつだ。動脈と違って、ぱっと縛って止めることが難しい。傷つけば、出血する。脳が腫れる。手術が、一気に難しくなる。
その大きな静脈から、いくつもの細い枝が、脳の表面に向かって流れ込んでいる。これを「橋渡し血管」と呼ぶ。脳と心臓系の血管を、文字通り「橋」のように渡している血管だ。
この橋渡し血管の走り方が、患者さんごとに、まったく違う。
ある人は左右で対称的に並ぶ。別の人は、左にぎっしり集まっている。右に偏っている人もいる。
あるいは、ちょうど私たちが入りたい場所に、邪魔な位置に1本だけある人も、いる。
つまり、患者さんによっては、教科書通りの場所から入ろうとすると、その橋渡し血管を切らないと進めない状況になる。
避けたい。
未破裂脳動脈瘤の開頭手術は、急ぐ必要のない手術だ。だからこそ、術前にいくらでも時間をかけられる。MRIと造影画像を、角度を変えて繰り返し見て、その患者さんの「脳の天井の地形」を、頭の中に立ち上げる。画像の前で、私はいやというほど怖がっておく。地図を持たずに手術室へ入るのが、何より怖いからだ。
頭の地形は、ひとつとして同じものはない。
左に、通り道があった
その方の場合、教科書が「劣位半球だから優先せよ」とする右側に、橋渡し血管が4本、密集していた。
そこから入ろうとすると、すぐに血管にぶつかる。
一方、左側は、その密集している場所が、たまたま、すこしだけ空いていた。1本と1本のあいだに、ちょうど人差し指1本分くらいの「通れる隙間」があった。
つまり、左から入った方が、橋渡し血管を1本も切らずに、動脈瘤に届くことができる。
問題は、左から入ると、優位半球である可能性の高い左側の脳に触れることだ。教科書はそれを嫌う。「劣位半球からいけ」と書いてある。
けれど、劣位半球側から行くために橋渡し血管を1本損傷するリスクを負うのと、優位半球側だが血管を1本も切らずに行けるのと——どちらが、その方にとって手術リスクが低いか。
私の中では、最初から答えが見えていた。
橋渡し血管を1本切ったって、たぶん大丈夫なんやろう。多くの場合は、そうだ。でも「たぶん大丈夫」を選びたくない。
その一本が、その人の一生の言葉や、利き手を、左右するかもしれない。起こる確率は、きっと低い。けれど、低いという理由で妥協するのが、私はいちばん怖い。
彼は、結果として、左側からのアプローチで、無事に手術を終えられた。術後、橋渡し血管はすべて、開通したまま温存できていた。
外来で、彼に「左から入った理由」を、私は丁寧に説明した。「あなたの場合は、たまたま、左側に通り道があったんですよ」と。
彼は、しばらく黙って、「先生、わざわざ私だけのためにそこまで考えてくださったんですか」と仰った。
私は、答えに詰まった。
なぜなら、それは「あなただけのため」ではなく、当たり前の仕事として、すべての患者さんに対してやっていることだからだ。
けれど、その「当たり前」が、患者さんから見ると、当たり前に見えていないことを、私はその時、初めて気づいた気がした。
「あなたの場合は」と、言える医師
医学の教科書は、大事だ。何百例という積み重ねから生まれた、平均的な「最善」が、そこに書いてある。
けれど、それは「平均」の話だ。
目の前の患者さんは、平均ではない。「右側からのアプローチが標準」と書いてあっても、その「標準」が、その方の脳の解剖に合っているとは限らない。
教科書を信じて疑わない医師は、ある日、患者さんごとの個別性に対する敬意を失っていく。「いつもこのやり方で大丈夫だから」「あなたの場合も同じです」という言葉が、診療に増えていく。
私は、それを警戒している。
「あなたの場合は」と前置きをつけてから、毎回、その人の画像を読み直す。ベテランになっても、続けていたい、と思う。
そのために、脳手術のアプローチを設計する画像読み込みに、毎回いちばん長く時間をかける。そこを省略した医師は、教科書の言葉でしか、患者さんを見ていない。
手術リスクは、術中の手技だけで決まるのではない。術前のこの「読む時間」で、その大半が決まる。
教科書は、補助輪のようなものだ。スタート時の安全を支えてくれる大事な存在。けれど、それに頼り続けたら、いつまでも患者さん本人と向き合えない。
今夜も、画像の前で
もし、あなたが脳の手術を控えていらっしゃるなら、ひとつ、見ていただきたいことがある。
主治医の先生が、「あなたの場合は」という言葉を、どれくらい使っているか。
「教科書では右から入るのが標準ですが、あなたの場合は、ここの血管の走り方を見ると、左から入ったほうが安全だと思います」と説明してくれる先生は、おそらく、あなたを「あなた」として見てくれている。
逆に、「いえ、これは普通こうやるんで」と一律な答えしか返ってこないなら、セカンドオピニオンを、考えてもいい。
脳手術のアプローチは、教科書から組み立てるものではない。患者さんおひとりおひとりの脳の地形から、組み立てる。
それが、私が術前にいちばん長く時間をかけている作業であり、外科医としての、もっとも誠実な仕事だと、思っている。
こうして言葉にしてみると、改めて気が引き締まる。
明日も、その机の前で、画像を眺めることになる。
参考リンク:脳動脈瘤(Wikipedia) / 日本脳神経外科学会
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